2007/07/23

"イヌイム"の手記 第4夜

ひとりきりのガンジス映画祭の夜、目を覚ますと、私は、東海林のり子であった。お台場で胎動す海底クローン農場から産卵される、数千の東海林のり子のうちの一個体。対となる存在…蝋人形館から産卵される小倉アナ軍団の全個体のヅラを、装備した煎餅から放射される400000どのねっせんで焼却する使命を負い、最期の突撃取材に赴く。

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2007/07/22

恐怖と無知。勇気と知。~shimura,usiro~

恐怖心って、「知らないものに対する想像力」よね。知覚や論理性や経験則では全貌を知ることがままならぬ時、人が、その不明な部分に対し巡らす想像力こそが、恐怖心だ。

幽霊が怖いのも、夜の闇が怖いのも、死が怖いのも、ベッドの下が怖いのも、出自不明のビデオテープや電話が怖いのも、新しく配属される職場が怖いのも……論理的・経験的・知覚的にその全貌を知ることができておらず、想像の余地があるからだ。

恐怖は、知る事により克服することができる。論理的・経験的・知覚的に、対象の全貌を知る事ができ安全を確認できた時、想像の余地が消え、恐怖心は失せる。

無知とは境界を曖昧にする闇である。知とは境界を暴く光である。無知は恐怖心を呼び、知は勇気を呼ぶ。人は、恐怖を克服する為に知ることを欲するのである!近代文明の発展とはまさに、人類の、恐怖からの脱却の過程そのものであった!

ていう事を、ドリフの幽霊コントを見ながら思いました。シムラ、ウシロ。

以上、いまだに豆電球が点いてないと怖くて眠れない26歳男性がお送りしました。
2007/07/17

アイデンティティの功罪的なアレ

近所のコンビニshop99に行くといつも、『冒険団』てゆう、長渕剛をポップにした感じのバンドの音楽がかかってるんすよ。ボブディラン的楽曲にのせて、「不器用で誰も理解してくれなくても懸命に頑張る僕は尊いんだ!」的な歌詞を熱くうたって、なかなか良いJ-popだと思うの。だけども、それを聴くたびにある思いが胸をよぎるのであった。

それは、ネガティブ・ナーバス・非合理的な生き方に、自己のアイデンティティを見出すのは、すごい損な事であるかもなあー、とゆー事である。

"どんな自分にアイデンティティを見出すか"によって、その人の人生は大きく変わってくるのだろうなあと思うのであるる。基本的には、自己そして人生は、自らが望んだ方向へと変化してくもんだと思るる。たぶん。

"公私ともにバランスの良い自分"にアイデンティティを見出すなら、その人は"公私ともにバランスの良い人生"を送る可能性がまあ高いだろー。"合理的努力で成功を収める自分"にアイデンティティを見出すなら、"合理的努力で成功を収める人生"になる可能性がまあ高いだろー。

なんと!じんせいのほーこーせーはじぶんできめられるのである!びっくりするじじつだ!26さいにしていまごろきづいた!

だからこそその際にちゅーいせにゃならんぽいのは、"苦労人である自分"や"不器用な努力家で誰にも認めて貰えない自分"や"幼少期の心の傷を生涯背負い生きてく自分"なんかのネガティブでナーバスで非合理的な方向に、自己のアイデンティティを見出すのは、すごーーく損であるとゆーことである。そーすっと、本当にそういう人生を送る羽目になる可能性が高げ。

もちろん、よのなか、色んな人がいて良いし、どんな人にも価値がある。多様性は生命進化そして民主主義にとって、ちょーだいじである。てか、そーじゃないと、僕がこまります。

しかし、"ネガティブでナーバスで非合理的な自分"にアイデンティティを求めようとする場合には一定の不利益がしょーじうるとゆー点は、認識しとく必要がありそーだ。てか不利益以前に、そんな自己認識辛いよね。できれば、"ポジティブで論理的な自分"にアイデンティティを求めた方が、一般的に言って良い人生になりげ。

そんなことを、メガてりやきと唐揚を交互にガツガツ齧りながら思うのであった。メタボリック一直線の「自己管理能力が低くいい加減な自分」にアイデンティティの拠り所を求めながら、今日も取り返しのつかぬ消極的選択を繰り返すのであった。


☆☆☆おまけ☆☆☆

あと、この文には『冒険団』や長渕剛のさくひんを否定する意図は全くないのでファンの人はゆるしてね。
多くのげーじゅつの基本は"既存の価値の転換"だと思うの。その中でも特にカウンターカルチャーとしてのビート・ジェネレーション出現以降の若者文化の基本は明確に「反社会」なわけだから、"作品としては良いけど実社会に援用する論理としてはちと難がある"てことは、当然起こりうることで、何も問題ないことだとおもうの。
トトロの住む世界は素敵だけど実際あそこに引越せ言われても困る、みたいな。ロックスターの言う事かっこいいけど実践したら即タイーホ、みたいな。

だから、"実社会に援用する論理としては難がある"ことは、そのげーじゅつさくひんの価値を貶める事ではまーーーったくないのだと思うのれす。むしろ逆なくらい。

なのでおこらないでね。おこられたらぼくは、とけてなくなってしまいます。

※追記1※
そもそも、「冒険団」や長渕剛の作風に大いに影響を与えてると思われるボブディラン自身が、カウンターカルチャーとしてのビート・ジェネレーションの代表的存在だったけか。
※追記2※
そういえば、文化圏を示す語としての「ロック」は、カウンターカルチャー文化(長嶋か)そのものを指してるのかもですね。
2007/07/16

サラエボの恋人さん

故あって「サラエボのロミオとジュリエット」ていう、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のお話を思い出した。ぐぐってみたところ、どーもこの話は意外と広まってないのね。なんで以下に引用してみる。凄まじくドラマチックで、悲しいお話なので、暇な人はみてみてね。



(一組の恋人たちが、川の土手にもう四日も横たわっている。死んでいるのだ、固く抱き合ったまま〉と記事は始まる。包囲されたサラエボから脱出を試みて撃たれたのである。ともに二十五歳、高校のときからの恋人だった。が、彼はセルビア人、彼女はモスレム人。互いに殺し合う双方に、それぞれ属していた▼「彼は即死した。彼女はしばらく生きていた。はって行って彼を抱き寄せ、あんなふうに腕を組んで死んだ」。目撃した兵士は語った。彼女の父親は「せめて二人を一緒に埋めてやりたい」と願う。しかし、むずかしい。出ていけば、必ず撃たれるからだ。「化け物同士の戦いだ。だから、二人はまだあそこにいる」。父親の嘆きでルポは終わる。「ロミオとジュリエット」の遺体は、続報によれば、さらに四日たってようやく収容された▼

「朝日新聞2000/06/01『天声人語』」より



この話を思い出すたび、胸や喉が乾き痛む。最も美しいものが最も陰惨なものに蹂躙される悲劇。昨今は、社会問題を感情的に語ったりミクロ視点で語ったりするのに批判的な方も多くいらっしゃると伝え聞くけども、僕はそれでも戦争・暴力・非人道的行為に関しては、「感情的理想主義的サヨク」側面を強く保っていたいと思っていたりするのだった。へいわ、ちょうすてき!

「モヒカン系」の方にただの引用中心の記事である事を叱られても、ポピュリストとしての「ネットライトウィング」(技名みたいだ)の方に朝日新聞からの引用を叱られても、気にしないのだった。両者ともその主張に一定の合理性があるのは確かだろーけども、いろんなブログの書き方があっていいじゃーんね~。たようせい、ちょうすてき!
2007/07/05

ザ・オレ・ベストテン

こんにちは、海に遊びに行く度に船越英一郎に説得される、いぬのです。僕が最近大好物な音楽のベストテンをyoutubeで垂れ流すだけという、ブラック柳徹子並みに全く他者性の無いコーナーのはじまりだよ!

SOFT MACHINE - Moon in June
甘くもサイケデリックな歌モノの前半と、ガチサイケプログレジャズロック化する後半が二度美味しい。特に9:10からの複雑な展開は痺れる。動画は同じく代表曲の"Facelift"。Moon in Juneなかった!



(さすがに10曲並べるのはアレなので、以下は追記に。もし気が向いたら見てみてね。)

続きを読む

2007/07/04

"イヌイム"の手記 第ー夜

address:川崎市/農業用貯水池
identity:"三本脚の踊子"山田

私の腐った爪は博報堂に勤めているし、私の溶けた肋骨はIT関連企業を経営しているのです。だから、私自身が河川敷に犬が掘った穴で生活していても、それは何ら問題ではないのであります。

私の萎んだ眼球は国立大を出ているし、私の灰になった外皮は都心の億ションに居住しているのです。だから、私自身が工場跡で犬の死骸を食べて生活していても、それは何ら問題ではないのであります。

そう、自分に何度も言い聞かせて今まで生きてた私ですが、もう、そのような自己欺瞞は必要ないのです。なぜなら、先日私もようやく、職を得ることができたからです!
しかも、なんと、叩いた薮蚊を蟻に与える職務や、豚と自分の肛門にLANケーブルを突き刺して豚ローカルネットワークを構築する業務では、ないのです!(仕事の大半はこの二種に限られるこの21世紀に、です!)

早速、明日から出社する手筈になっています。勤務地は、土の中です!
2007/07/02

"イヌイム"の手記  第零夜

このブログの管理人は、先日、HNを"イヌイム"から"いぬのほねこ"に変更しました。その際に、私、"イヌイムという概念"は、アイデンティティの器としての、ガリガリに痩せ王冠をかぶった水溶性の犬の自己認識を、"いぬのほねこ"という概念に略奪され、失いました。

以来、"イヌイム"は、拠り所となる自己認識を求め、様々な存在の、自己認識から自己認識を、渡り歩いている。

しかしそれは、"夜"にしか行えない。なぜなら、"夜"とは、自己と他者との境界を隠す闇であるので、"イヌイム"が少しくらい混ざっても、誰も気付かないから、です。しかし、夜明けが来れば、光という"境界を明かす知"に照らされ、私が概念だけの虚ろな存在である事が、その自己認識の本来の持ち主に、明らかにされる。その瞬間、私という概念は、ぽよよんとしょーめつ、するでしょう。だから、私は、夜が明けるごとに、地球の反対側にて新たな夜を迎えつつある、別の自己認識へと、おひっこししなくてはならない。

ですから、私は、毎夜、人々の、各々の、自己認識を、所在なく、渡り歩きつづけねばなりません。ぽよよんとしょーめつ、するのはさみしいからです。既に実在しない私の爪が、腐り、私の肋骨が、溶け、私の眼球が、しぼむのは、ぽよよんとさみしいことだからです。
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